スクエア(正方形)な長浜城下町
江戸時代の近江国長浜町は、戸数約一千二百戸、人口約四千七百人を誇り、北近江三郡の物資が集散する商工業都市として栄えた。主力の繊維業は、浜縮緬や浜蚊帳などの「浜」ブランドで知られ、近江国内においてトップクラスの経済力を有した。
南北約一・五km、東西約〇・五kmの規模を有する町割は、五十二の両側町を構成するタテ・ヨコの街路によって区切られている。町の中心部は、各街区とも屋敷の裏に空閑地を残した、正方形街区が成立していた。さらに各屋敷地は、整然とした短冊型地割を基本とした。この町割の成立は、天正二年(一五七四)から天正十年(一五八二)に、羽柴秀吉が行った城下町に求めることが出来る。
天正二年(一五七四)から造成された城下町は、秀吉が長浜を離れる天正十年(一五八二)までに、三期に分けて完成されたと考えられる。まず、第一期は今浜村や近隣の横浜村などを主体として造った大手町と東本町・西本町、それに東・中・西の魚屋町や北町、そして北船町・瀬田町・横浜町・大安寺町などであった。ここでは、東西方向に伸びる魚屋町・大手町・本町といった、城に向かうタテ町が、城下町の基幹道路として最初に造成されたことが分かる。
長浜城下町の拡張
第二期は天正八年(一五八〇)頃までに、小谷城下から南北の伊部町や上・中・下の呉服町、大谷市場や鍛治屋町、さらに坂田郡箕浦から箕浦町が移住し、城下町のほぼ中心部が成立したと考える。これらの町は、城に平行する町並なのでヨコ町に当たる。実は、タテ町は城への求心性があり、城主への従属性が高い町割だが、ヨコ町は城下を貫く街道を重視する形となり、経済性を重んじた町割といえる。戦国から近世へ推移するにつれ、城下町はタテ町型からヨコ町型へ変化するが、長浜が典型的なタテ町である事実は、城下町としての古さを物語っている。
第三期は、天正九年(一五八一)頃に、小谷城下からの第二次移転によって、北町より北部の郡上町や知善院などが形成されたと考える。一方、南部の南新町は、その「南の新町」という町名の由来からして、中心部より一時期遅れて成立していると見られる。したがって、南新町以南の造成は、第三期に当る北町以北の造成と同時期と考えた方がよい。
最後に寛永年間(一六二四~四四)に至って、町の北東部の「石田町」へ長浜城内から大通寺が移転し、その門前に西御堂前町と東御堂前町が整備され、近世・近代・現代まで続く長浜の都市景観がほぼ完成した。