城下町「長浜」の近世

十人衆・三年寄の自治

 慶長二十年(一六一五)の「大坂の陣」に戦功を上げた彦根藩主井伊直孝は、徳川幕府から長浜領五万石を与えられた。この時、長浜城は壊され、以後の長浜は城下町としてではなく、彦根藩内の在郷町(在町)として発展していく。
近世の長浜では、十人衆と呼ばれる有力者によって自治が行われ、この十人衆から町政の執行に当たる三年寄が選任された。彦根藩はその領国内を統治するために、農村部は筋奉行に担当させたが、彦根と長浜には町奉行を置いて支配を行なった。三年寄は、この町奉行が任命する形をとった。
三年寄の職務は多様で、町奉行からの触を長浜の各町(五十二町)へ伝達したり、各町や個人からの願書を町奉行に届ける役目を負った。その他、町内の人身の把握、家屋の管理、紛争・事件の処理など、町奉行に代わって長浜町の行政権・裁判権・警察権を事実上握っていた。町年寄の文書を見ていると、町奉行には報告のみ行っている例が多く、事実上は三年寄が、町の統治者であったことが分かる。すなわち、長浜町の自治に対して、彦根藩は直接介入することがなかった。

自治の町の特色

 長浜の町は、都市として種々の機能を持っていた。彦根藩三湊の一つとして、船町を中心に港町としての側面もあった。また、北国街道が南北にのびており、宿場町の色彩も濃い。さらには、大通寺南の御堂前は門前町としての性格も併せ持った。この多岐にわたる土壌の上に、浜糸・浜縮緬・浜ビロード、浜蚊帳といった産業が隆盛する。周辺の農村部で営まれた養蚕業を取り込み、日本有数の繊維業の街として栄えていくのである。幕末から明治初期に至っては、長崎・横浜を拠点としての生糸貿易にも進出し、その経済力は滋賀県第一を誇るようになる。
(長浜城歴史博物館 元館長)