長浜の町衆文化
秀吉の城下町で育まれた長浜の町衆文化は、
①猿楽に代表される庶民芸能の土壌
②町年寄十人衆が自治をつかさどり、職能別の町編成がなされてきたこと
③山組・町会・井戸組などの自治組織が入り組み、寄り合いが活発だったことと町衆が共有財産をもっていたこと
④江戸や京都との文化的経済的交流による情報の多様さ
⑤文人墨客の頻繁な往来
⑥真宗の教義がもたらした精神的土壌と講の存在
⑦町の入口に城門のような木戸が設けられていたことによる連帯感
などの背景の中から花開いてきたと言える。
長浜からは幾多の豪商を輩出するが、江戸末期に作成された長浜町切絵図を見ても、敷地や建物に、町民間でそれほどの差はない。利益の社会還元などで富の再配分がうまくいっていたためか、町人が平均した財力をもってきたことがうかがえる。つまり、武士や豪商が支配した町でなく、町人の寄り合いによる合議の中から自治運営がなされてきた町と言えるのだ。
町衆パワーの結晶、曳山と黒壁
こうした町衆パワーが、最も顕著に見られるのが長浜曳山祭である。町の経済力が山組間の曳山装飾競争に刺激を与え、「動く美術館」・「移動歌舞伎座」を生み出した。2016年12月、「長浜曳山祭の曳山行事」がユネスコ無形文化遺産に登録されたが、登録されたのは「長浜の曳山」ではなく「曳山行事」であることから、行事に関わる伝統を育み継承する文化的なソフトパワーが、町衆にはより求められている。
また、近年になって、この町衆パワーの結晶として生まれたのが黒壁だ。黒壁の本館(一號館ガラス館)は、明治三十三年(一九〇〇)に国立第百三十銀行長浜支店として建てられた建物。その後、カトリック教会等としても利用されてきたが、外壁が当時流行の黒漆喰仕上げのため、市民からは長い間「黒壁銀行」・「黒銀行」として親しまれてきた。
明治を語るこの記念碑的な建造物が、昭和六十二年(一九八七)に解体話が浮上した時、「取り壊されたらおしまいだ、買い上げて保存を図り商店街活性化の拠点にしよう」と市民世論が盛り上がった。熱心な有志の取り組みに、長浜市も保存を図るために参画、翌年になって第三セクター「株式会社黒壁」が産声をあげた。
資本金一億三千万円。出資者は九人で、市民七人に長浜信用金庫と長浜市が加わった。市民有志は、倉庫業、繊維卸・不動産業、履物卸業、酒販売業、建設業、金属加工業、ホテル経営にあたっていた人たち。JCやロータリークラブなどで活躍してきた地元経済界のリーダー的存在である。現在の長浜の町づくりのシンボルとも言える黒壁は、平成元年(一九八九)に本館がオープン、現在三十號館まで店舗を展開させ、秀吉の町・長浜市街地の中核施設となっている。